エリック・ホッファー自伝-構想された真実
中本義彦訳
作品社
2002年
1 無意味な前置き
本に対する思い入れを語るとき、その「思い入れ」は様々な形をとると思う。
私にとって、『エリック・ホッファー自伝』は、本を入手した情景が思い浮かぶという意味で思い入れのある本である。
なお、本を入手した際の詳細は純個人的な事象であり、他者にとっては無意味なことであるため、省略する。
2 神話解体の試み→失敗
社会において純粋な研究職として生計を立てられる者は限られている。
そのため、多くの者は必然的に在野研究というスタンスで学究を進めることとなる。
「在野研究」の意味する対象を、報酬や公開の有無を問わない任意の学究とすれば、多くの者が在野研究に関心を持っていると言えそうである。
そして、在野研究の話題になった際に、頻繁に言及される人物が「エリックホッファー」である。
同氏は、正規の学校教育を受けずに、肉体労働をしながら独自の思索を深めていった。
エリックホッファーは在野研究者というカテゴリーにおいては神格化されている感がある。
エリックホッファーの自伝にあたることで神話は解体されるか。
解体された神話の破片を拾い集めて精査することで、在野研究のヒントを得られるか。
そのような志向で本書を読み始めた。
私は、エリックホッファーがいかなる環境で、いかに思考したかを知りたかった。
本書においてこの要望に応える記述は多少はある。
例えば、次の歴史に関する記述がそれにあたる。
類似性は自然なものだが、相違は人為的なものだと私は考える。違いを作り出した人びとの名をわれわれが知っていることもあるが、そうした人びとの大半は無名の誰も訪れない墓に眠っている。歴史は不可抗力によってではなく、先例によって作られるのだ。ありふれた日々の出来事が歴史に光を当てることがあると知ったとき、私はこの上ない喜びを感じた。たぶん、書かれた歴史が抱える問題は、歴史家たちが古代の遺跡や古文書から過去への洞察を導き出し、現在の研究からは引き出していないということにあるのだろう。私が知る歴史家の中に、過去が現在を照らすというよりも、現在が過去を照らすのだという事実を受け入れる者はいない。大半の歴史家は、目の前で起きていることに興味を示さないのだ。*1
本書はエリックホッファーの思考自体の記述よりも日常の描写が多い。
確かに、日常の描写から同氏が特異な環境下で思索を深めたことはうかがわれる。
しかし、特異な環境が独特の思索につながったのか、あるいは、独特の思索を行えるだけの素養があり、それが特異な環境下でも発揮されたのか。
それは本書のみでは判定できない。
この疑問に答えるためには、同氏の個々の著作にあたるしかないようである。
そもそも、自伝だけを読んで同氏の在野研究の真髄を汲み取ろうと考えたことは虫がよすぎたのかもしれない。
*1:144頁