数ヶ月前、久しぶりに映画館で映画を見ました。
10数年ぶりです。
映画館の無料券をいただいたので、重い腰を上げて、映画館へ向かったのです。
この作品に関しては特に説明不要でしょう。
そもそも、私は、この作品が受賞した賞の権威を理解していないため、下手な説明は出来ません。
以下は、映画の内容に踏み込みます。
まだ、同映画を見ていない方は注意してください。
なお、記述に関しては、一度映画を鑑賞した記憶に依存しているため、正確性が担保されておりません。
※ 閲覧注意
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1 演出、構成
2 圧倒的な演技
3 主題
1 演出、構成
淡々と日常が描かれており、「家族」に関する情報の一端しか分からないようになっている。
もっとも、お互いの呼称、万引き行為が常態化していることなどから「家族」が普通でないことは分かる。
そして、逮捕を機に「家族」に関する情報が一気に開示される展開となる。
この構成は、過度の先入観を排除すると共に、視聴者が能動的に手がかりを探すような見方に誘導する点で優れている。
そもそも、最初に「家族」の解説をすることはあまりにも野暮であり、選択しがたい構成であろう。
2 圧倒的な演技
「家族」が逮捕された後の「母」の取調べにおいて、こんなやり取りがある。
「あなたは何と呼ばれていたか」
作中では呼称について微妙なやり取りが繰り返し描かれてた。
親子同然の生活をしているのにも関わらず、「おじさん、おばさん」などと呼ぶ、微妙な関係性である。
もっとも、親子同然の生活をしているのであるから、当然に情も生じる。
それゆえ、「母」は自らが「お母さん」と呼ばれるを望んだ。
しかし、それは叶わなかった。
作中のこのようなやり取りを踏まえると、取調べにおける上記質問の残酷さが浮き彫りになる。
この、胸を射貫くような質問に対して、「母」は、据わりが悪い仕草で、顔を触ったり、髪をかき上げたりした後、答える。
「何だろうね」
上述の通り、私は映画通ではないので、演技の機微を理解する能力はないかもしれない。
そんな私でも、この場面を見たときに「人はこんな表情ができるのか」と思った。
何かが憑依したかのような圧倒的な演技であった。
3 主題
本作品の主題を最も抽象的に表現すると、「正しさとは何か」であろう。
(1)
「家族」逮捕後の「母」の取調べにおいて象徴的なやり取りがなされている。
「なぜ老人を遺棄したのか」という質問に対して「母」は、
「私は拾った。私が拾ったということは誰か捨てた人がいるんじゃないですか」
と回答する。
このやり取りは、この場面の字面だけを追っても支離滅裂である。
当然、取調官もこの発言の意味を理解しないという演出がされる。
しかし、作品をここまで観てきた者には意味が分かる。
意味が分かるどころか、物事の本質を当意即妙に表現した発言にすら思える。
この場面では、「家族」と他者では「正しさ」の尺度が異なるため、理解してもらうことを放棄する皮肉が表現されている。
(2)
「家族」の中では、「父」と「息子」とが下ネタのやり取りをする場面などが描かれていた。
一方で、警察に保護された後の、警察と少年の会話には気味悪さがある。
あまりにも綺麗すぎるのである。
「家族」間のやり取りは泥臭く、人間臭く描かれているのと対照的に、警察の対応は表面的で、偽善的に描かれている。
(3)
本作では、「家族」が一網打尽に逮捕されることを回避するため、「息子」を置いて逃げようとする場面がある。
また、「家族」が逮捕された後、「娘」が事情を聞かれる場面がある。
ここで、「娘」が「家族」のことを事後的に振り返ると、「家族」が本当に良好な関係性で結ばれていたか確信が持てないという不安定さが描かれている。
いずれの場面でも「家族」の連帯の脆弱性が垣間見えるのである。
「家族」に絶対的な「正しさ」は付与されない設定となっており、この点は特に秀逸であると思う。
結局のところ、「正義」の否定が正解か、「正義」が正解か。
本作では、勧善懲悪の物語のような明快な結論が示されることはない。
ただ、「正義」という概念にそっと微毒が盛られるのである。