近代ゴリラの読書感想文

元予備役。司法試験合格。国家総合職試験合格。

 近代ゴリラ=インテリジェントゲリラ

【読書感想文】フランケンシュタイン VS トーキョーグール

 今年の序盤に、メアリー・シェリー著『フランケンシュタイン』を読んだ(聴いた)。
 
 なお、同作品を読んだのは、廣野由美子著『批評理論入門『フランケンシュタイン』解剖講義』を読むための準備行為であった。
 
 同作品を読んでいるとトーキョーグールとの類似性、相違性が見出されたので、両作品の対比という形で感想を垂れ流したい。
 
 なお、いまさらトーキョーグールを取り上げるのは旬を過ぎているが、旬を過ぎても取り上げるだけの普遍的価値をあるという詭弁のもとに、先に進むこととする。
 

フランケンシュタイン

 
 
 
 
 フランケンシュタイン博士が創成した奇形の怪物である。
 人間はその怪物を見ると、その外形に震撼すると共に、瞬時に激しい憎悪を怪物に向ける。
 
 より具体的には、怪物を抹殺しようとする。
 
 視点を怪物側に移すと、人間が上記のような対応をするので、自らも人間を倒さなければならない。
 
 ただし、怪物の対応には、過剰性がある。
 
 人間が特に自らに攻撃を仕掛けていない場面でも人間を殺害しているのである。
 
 これは、自らの創造主であるフランケンシュタイン博士に対する復讐の意味合いが含まれていることによる。
 
 
2 トーキョーグール
 フランケンシュタインの怪物とは異なり、グールの場合は、
人間を喰らうことが生存の必要条件となっている。
 
 つまり、人間を殺すことに必然性がある。
 
 フランケンシュタインの怪物にあった「過剰性」が排斥されているのである。
 
 グールが人間を殺す場合には、自らの生存のための最小限の手段であるため、このこと自体を直ちに不当と断定することはできず、倫理的な問題が顔をだす。
 
 同作品の中では、グールの存在自体が悪であるという命題に忠実にグールの排除が正当化されていた。
 
 当然、この命題は人間側から見たものである。
 人間に危害を加えるグール=悪というポジショントークである。
 
 ただし、このポジショントークは誤りとは言えない。
 
 言うまでもなく、人間としてはグールを駆逐しないと自らが殺害されてしまうため、自らを喰らおうとするグールを殺めることが自らの生命維持のために必要だからである。
 
 結局のところ、グールが人間を喰らうことを否定はできず、人間がグールを殺すことも否定できそうもない。
 
 
3 まとめ、あるいは、投了
 以上の問題の核心は、自らの意思とは無関係に規定された自らに関する所与の条件について、どこまで自らが責任を負わなければならないのかという点に帰着するだろう。
 
 軽い気持ちで書き始めた本稿であるが、思いの外、面倒な議論になりそうな気配を感じたので、議論の上っ面のみをなぞり、勇気ある撤退を決意した。
 
 なお、トーキョーグールについては、二年以上前に見た映画の記憶を掘り起こして書いているので、誤った理解があるかもしれないが、もう一度映画を見る余裕はないので、ご容赦願いたい。