高学歴男性におくる弱腰矯正読本 男の解放と変性意識
須原一秀著
1 著者について
2 内容
1 著者について
本書の著者である須原一秀氏は、哲学研究者であった(哲学者と言わないと本人に怒られるか。)。
須原氏は「哲学的プロジェクト」として自死をした。
このような生き方をした哲学者の著作を是非読んでみたいと思った。
かくして私は本書を手にとった訳である。
私は、同氏の哲学的プロジェクトの詳細は知らない。
もっとも、ある程度の想像はつく。
本書でもその伏線は張られているように思える。
例えば、本書では、≪死への覚悟≫により生の感度を高めるという提言がある。
≪死への覚悟≫などと言っても、当人が生存している以上、外形上その覚悟を確認する術がない。
ここで、ジレンマが生じる。
このジレンマを解消するには≪死への覚悟≫を事実として示すしかない。
恐らく、須原氏はこのような思考で自死をしたのではないだろうか。
なお、この自死の論理は、三島由紀夫の自決は、天皇陛下への絶対的帰依を事実性として提示したことに意義がある(三島由紀夫の最期は不合理な衝動として扱われがちであるが、極めて論理的行動であると見ることもできる。)という宮台真司氏の秀逸な考察と重なるところがある。*1
本書でも三島由紀夫への言及が散見される。
「哲学的プロジェクトとして自死をした。」
この文字列を常識人の物差しで測ると、狂気の沙汰というレッテルが貼られるだろう。
しかし、人間の死が必然である以上、それを自らの手で操作したことを狂気の沙汰として断罪できるかは、考察を進めるとかなり微妙に問題になってくる。
様々な作品でこの深遠な問題意識が表現されてきた。
例えば、『邪宗門』髙橋和巳著が挙げられる。
救霊会の人々の死をいそいだ心情を決していいこととは思わない。私は常識人であるから。だが、無条件にこの人々の信仰の形態に嘲笑をなげかけうる資格のある者が、いまのところこの地球上に存在するとも信じえない。残念ながら私もまた生者である以上、死者の側には立ち得ない。ただ私は、それを些か悲しむことができるにすぎない。成仏せよ、救霊会の人々よ。
あるいは、『シーシュポスの神話』カミュ著 が挙げられる。
真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである。
これらの作品以外にも同様のテーマを扱った作品は枚挙に暇がない。
話が多少脱線したが、須原氏の哲学的プロジェクトも一定の価値を付与される試みだったと言えるかもしれない訳である。
2 内容
本書は、「価値意味と自己保存の逆比例の法則」を提示する。*2
これは、価値や意味を発見したり、感受したりする能力と、自分の命と生活をしっかり守っていく能力とは両立しないことを意味する。
そして、個体としての強度を高めるために様々な提案、アジテーションを投げかけてくる。
その中の一つを紹介すると、使用言語の矯正による人格改造が挙げられている。
この手法は『思考は現実化する』で示されていたことに近いと思う。
また、上記1項の通りの著者のキャラクターを知っているというバイアスに由来するのかもしれないが、本書を読んでいると、時折、訳もなく不気味な印象を受ける。
この判定は各々の読後感に委ねたい。