1 メタル史は移りゆく
私の青春時代である中学から高校時代に特に熱中したバンドは、PANTERAとSlipknotであった。
PANTERAについては、私が関心を持った頃にはすでにDarrellは悲劇の最期を迎えた後であり、Vinnieも近年に亡くなった。
Slipknotについては、Paulが亡くなり、Joeyが先日亡くなった。
新木場で観た、両者の勇姿を忘れることはない。
移りゆくメタル史の中で、ミクスチャー系あるいはデジタルサウンド系、グルーヴ感の薄いアート系、歌ものの構成比率が高いメタルなどの流れには乗り切れなかった私の関心はどこにあるのか開陳したい。
関心はいくつかの方面にわたるが、本稿では、岡倉天心を引き合いに出しつつ、特筆すべき一つのバンドについて述べたい。
現時点では、思いつきを書き殴る雑漠な論稿となると思うが、今後、より洗練した内容に磨き上げるための叩き台としたい。
2 消費サイクルが加速した現代ポピュラーミュージック
異論はあると思うが、ポップスは一定の「規定演技」にならざるを得ない側面があり、完全に斬新なコード循環や旋律・曲調を無限に生み出せる性質とは言い難い。
そのため、過去に無数にリリースされた曲と全く異質な曲を作るのは難しい。
新曲を聴いてもどこかで聴いたことがあるような曲が多く、「●●は○○のパクりだ」といった批判を頻繁に耳にするのもこの性質によると思われる。
このようなポップスの性質に加えて、一曲一曲が消費されるサイクルも異常なほど早まっていることを感じる。
新曲への無料アクセスの裾野が広がり、一曲一曲を入手するコストの減少が、一曲一曲へ扱いの軽さにつながっている。
ジャズ喫茶の特集で老舗のマスターが語る、若い頃に苦労して買った高価なレコードをすり切れるほど聴き込んだ等の逸話は、隔世の感がある。
当然、資本主義社会においては、音楽活動を職業とするのであれば、音楽活動=経済活動という側面は不可避的にまとまりつくのであり、浮き世離れした独自の活動を成り立たせるのは至難の業である。
そのため、一定程度は、「大衆に受け入れられるのはどのような曲か」という視点を持つことの有効性を否定はしない。
しかし、言うまでもなく、そのような視点から打算的に作り出された音楽は、上記の「早すぎる消費サイクル」に飲み込まれ、流れに浮かぶうたかたのごとく久しくとどまることはないという大局がある。
そんな中で、従来からマイノリティを主たる対象としていたメタルバンドはいかにあるべきか。
そして、私は、音楽(メタル)に何を求めるか。
3 Ailiph Doepa(アイリフドーパ)
(1)
では、私は、音楽(メタル)に何を求めるのか。
純度の高い衝動を求める。
商業的な臭いのしない純粋な衝動である。
メタルに商業主義的な俗物性が混入した時、純粋な衝動に歯止めがかかるのである。
そして、この純粋な衝動を駆り立てる特筆すべきバンドの一つが「Ailiph Doepa」(アイリフドーパ)である。
初見では、読み方すら分からないだろう。
このバンド名の由来は、ここには書かない。
読者諸兄が各自でお調べいただきたい。
このバンドの魅力を抽象的に表現すると、「大衆へ歩み寄るのではなく、自らの構築する世界を肥大化させ、社会を飲み込む姿勢で一貫していること」である。
例えば、「Millennium Song」という曲がある。
PVを観ると分かりやすいが、オーソドックスなパンクバンド的な風貌で、颯爽とメジャースケールパンクを演奏しはじめる。
しかし、曲調は変わり、風貌も変わり、情緒不安定な従来の彼らの曲調が顔を出す。
軽快にノルことができる軽いパンクへの傾倒はしない=「大衆に歩み寄ることはしない」ことを強烈に発信する。
あるいは、「Shimokitazawa」では、「いかにも歌メロ」といったサビが炸裂し、「大衆に歩み寄った」かと思わせる。
しかし、すぐに、「こんなサビで売れるくらいなら自決を選ぶ」と高々に宣言し、「自決=腹切り」というモチーフを暴走させ、最期は先祖である落ち武者が召喚されるというカオスを演出する。
さらにあげると、「Lemon」という曲がある。
巷で「Lemon」という曲名を聞くと想起されるのは、米津玄師のそれであると思うが、Ailiph Doepa「Lemon」は全く異質である。
出だしから、情緒不安定を絵に描いたような、聴き慣れない、儚げで怪しげなアコースティックリフが炸裂したかと思えば、展開部分では、いきなり、単純なメジャートライアドのベースがうなり、狂ったように明るい曲調で疾走する。
強烈なコントラストが織りなすカオスである。
「これが自分たちにとってのLemonである」といった彼らの彷徨が聞こえてくるようである。
ここでも、やはり、「大衆へ歩み寄るのではなく、自らの構築する世界を肥大化させ、社会を飲み込む姿勢で一貫している」。
(2)
ここまで述べてきたことからすると、何となく「色物バンド」という印象を持ったのではないかと思う。
しかし、音楽的なレベルが低いことはない。
例えば、「Corn Flake」など、曲名からしていかにも思わせぶりなオマージュの曲がある。
あるいは、「mars」では、一昔前のスラッシュメタルを彷彿とさせる解放弦を含む疾走系のへヴィリフが轟く。
同曲の最後の展開部の壮大なメロディは、北欧系メタルで聞き慣れた響きがある。
このように、彼らは、メタルの基本的な構成要素を完全に消化した土台の上に独自の世界観のメタルを構築する。
「巨人の肩の上に立っている」のである。
強固な基礎の上に築かれる彼らの音楽の特徴は多様であるが、一つには、同一フレーズを単純に繰り返すことをしない美学が感じられる。
同一フレーズを繰り返さず、転調や意表を突く曲展開をし、カオスを創出する。
このカオスは高度な音楽性に支えられており、破綻することはない。
合理的に選択された混沌、合理的な不合理といったところであろうか。
音楽的な完成度が高いとはいえ、計算高さが鼻につくことはない。
それは、計算高さか鼻につくような完成度にならないように仕上げることができる彼らのレベルの高さに加え、一曲一曲にエッセンスとして、本能的なカオス、渾身のユーモアがそそぎ込まれているからである。
この本能的なカオス、渾身のユーモアにリスナーが感染し、形容しがたい衝動を共有した瞬間、彼らの構築する世界観に飲み込まれる。
そして、この瞬間は悪くない。
(3)
先に紹介した「Millennium Song」「Shimokitazawa」は、純粋なパンク部分、ポップスの部分だけを取り出したとしても十分成り立つ完成度を有する。
つまり、彼らの手にかかれば、大衆への接合点が模索しやすい曲を作ったとしても、レベルの高いものが作れるということを暗に示している。
もっとも、上述のとおり、そのような音楽を選択しないというのが彼らの所信表明である。
このスタンスは岡倉天心を彷彿とさせる。
天心は、欧米を訪れる際には、常に和服の正装を用意し、着用していた。
「おいらは第一回の洋行の時から、ほとんど欧米を和服で通っている。
お前たちもせめて英語が滑らかに喋れる自信がついたならば、海外の旅行に日本服を用いた方がいいことを教えておく。
しかし破調(ブロークン)の語学で和服を着て歩くことは、はなはだ賛成しがたい」*1
ある日、私達四五人が街を歩いていました。
私達はみんな日本服でしたし、特に岡倉先生は、あんな六尺豊かな体でしたから人目に立つのです。
そこへハーバード大学の学生が五、六人向こうからやって来て、すれ違いざま、いきなり(アーユー チャイニーズ オア ジャパニーズ?)と訊いてきました。
先生は横目で見ながら即座に、(アーユー ヤンキー オア マンキー?)とやったものですから、向こうは笑って、負けた負けたと言いながら逃げていきました。*2
つまり、岡倉天心としては、高度の語学力・知識を持ち、欧米流のスタイルに仕上げることもできるのである。
しかし、天心はその選択をしない。
欧米流のスタイルに仕上げることができるからこそ日本流のスタイルに固執することが許されるというスタンスである。
今後、Ailiph Doepaは、大衆へ歩み寄るのか、あるいは、彼らの世界観をさらに肥大化させ、大衆との接合点を浸食していくのか。
一見すると大衆への歩み寄りのようなアプローチがとられていると感じられたとしても、上記各曲で示された「所信表明」のごとく、彼らなりに消化した上での世界観提示があるはずであり、単純な妥協ではないはずである。
いずれにせよ、彼らから提示される世界観、彼らが曲に注ぐ「本能」をくみ取るのがファンの務めであろうと思う。