大衆食堂の人々
1996年
1 概要
表題作「大衆食堂の人々」を含む種々のエッセイ等が収録されている。
呉氏の他の作品にも共通することであるが、本書でも呉氏はユーモアをまといつつ固定観念、「常識」、大衆を斬る。
下記第2項では、本書に収録されているエッセイの中からいくつかをとりあげ、コメントする。
2 コメント
(1)大衆食堂の人々
表題作は、大衆の無知、無神経を揶揄するエッセイである。
著者からの一方的な攻撃かと思いきや、時折、大衆の大胆さに意表をつかれ、反撃を受けるのが面白い。
(2)学問のすすめ
巷で頻繁に「なぜ勉強しなければいけないのか」という問いが発せられる。
この問いに的確に回答することは意外に難しい。
本書に収録された「学問のすすめ」では上記の問いに対して著者なりの回答をしている。
この回答は、東洋史学の大家、宮崎定市の『アジア史論考』からの援用であるらしい。
そのため、私がここで引用すると孫引きになるわけだが、本稿は学術的な文章ではない。
また、原文を正確に紹介するというよりは紹介するエピソード自体に意味があると考えるので、ご海容願いたい。
この数学者は、また誠実な教育者であった。彼は、ある貧しい少年に目をかけていた。少年は、貧しいけれど、非常に頭がよかったからである。やがて、少年は進学時期をむかえた。しかし、貧しいため進学することはできなかった。数学者も残念がったけど、しかたがない。くじけるんじゃないぞ、勉強は自分一人でもできるんだ。数学者は、少年をこう励ました。三十年たった。老境にさしかかった数学者の家に、四十歳すぎの男が訪ねて来た。先生、長らく御無沙汰しております。おお、君は、あの少年。はい、実はこうして訪ねてまいりましたのには、わけがあります。あの時の先生の励ましの言葉を忘れず、農作業のあいまに、いつも紙と鉛筆をたずさえ、ひまを見ては計算をしておりましたが、先日、大発見をいたしました。御覧ください、これがその大発見です。男がわらばん紙に数字をかきつらねたものを出し、数学者は、それを受けとって見た。数学者は、そこに、あまりにも残酷な現実というものを見て、力なく、ああ、というしかなかった。わらばん紙に書かれた大発見がまちがっていたわけではない。その大発見は正しかった。だからこそ、いっそう残酷だったのである。そこには、二次方程式の解法が正しく記されていたのだ。
この逸話に関して特に解説は不要だろう。
「なぜ勉強しなければならないのか」という問いに対して一つの説得的な回答を提供している。
フリーハンドでの思いつきは独自の発想ではなく、すでに先人によって克服されている可能性に目を向けなければならない。
まずは巨人の肩の上に乗ること、これが一つの勉強の形なのである。
(3)瞬篇小説
本書には、「ポリューション」、「ロシヤ語を学ぶ」という瞬篇小説なる小説が収録されている。
この瞬篇小説というジャンル自体よく分からない。
短編小説やショートショートとは別の位置付けなのだろうか。
それ以上に、これらの小説の含意を読み解くことが困難であった。
もし、瞬篇小説を読み意味の分かる方がいれば解題をお願いしたいものである。
*1:131~132頁