民族の表象 歴史・メディア・国家
羽田功編
慶應義塾大学出版会
2006年
1 概要
メディアによって構築されたイメージである「民族」を読み解く。
このコンセプトに沿った論文が複数収録されている。
2 コメント
学生時代に読んだ本書を再読し、せっかくなので読書感想文として記す次第である。
収録されている論文のうち、以下をとりあげる。
・「資本と人種」ヨーゼフ・フォーグル
・「応急共同体」エーテル・マタラ・マッツァ
上記2つの論文は、「ドイツ的・ドイツ人とは何か?」をテーマとしている。
この抽象的なテーマ設定に適切な回答をすることは極めて困難であることは明白である。
そして、この予想通り、前者の論文はいきなり「投了」から幕を開ける。
上述のとおり、「ドイツ人」というドイツ人自身にとって当たり前に思えることすら、突き詰めると説明が困難であることに気づく。この論文は、後続のマタラ・デ・マッツァ論文と併せて「ドイツ的であるとは何か、あるいはドイツ人であるとはどういうことか」をテーマとしている。このテーマは私にとってもマッツァにとっても大変難しい問題で、正直なところを言えば「わからない」と答えなければならないだろう。(45頁)
後者の論文でも、ヴァーグナーに絡めて以下のとおり述べる。
ドイツ人であるとは何か、あるいはドイツ人であるとはどういうことか」という問いかけに対しては、ヴァーグナーはその長い人生のステージにおいていくつかの異なった答えを提示している。しかし、それにもかかわらずつねにそこに共通して顔を出す点が一つある。それは、この問いかけに対しては答えがない、この問題は解決できない、そしてそれこそが「ドイツ的である」ことにほかならないという点である。(62頁)
私たちが日常において、所与の前提としているカテゴリー、概念なども、実は、その意味内容が明確でないかもしれない。
ある概念を巡って対立が生じている際に、そもそものそれほど明確な対立軸を設定してよいものなのか。
曖昧な概念設定という脆弱な基盤の上での不毛な論争になっていないか。
上記の論文は小ぶりながら示唆に富んでいる。