1 はじめに
2 本書の構成
3 紹介
(1)被害妄想
(2)恐怖
(3)単調を極めよ
4 あらためて、幸福とは
1 はじめに
確か、学部一年の時に本書を一度読んだ。
先日、ふと本棚を見た際に偶然目に入ったため、もう一度読み返してみた。
2 本書の構成
本書は、「第一部 不幸の原因(以下、「不幸パート」という)」、「第二部 幸福をもたらすもの(以下、「幸福パートという」)」で構成されている。
後述の通り、私としては、不幸パートの方が面白く読めた。
ラッセルは、本書の中で、気に入らないことに対しては毒舌で愚痴る。
もっとも、最後は理性的で明晰な結論に落ち着くところが面白い。
3 紹介
本項目では、私が本書の中で面白いと思った部分をいくつか適当に紹介する。
(1)被害妄想
第八章では、被害妄想がとりあげられている。
各々の世界の中心は自分であり、それゆえ、時として、自分が関係する事柄を過大に受け止めてしまうことがある。
これを敷衍すると被害妄想にまで行き着く訳である。
ラッセルは被害妄想を回避するための「公理」を提示する。
この「公理」は抽象的なものであるが、すぐに具体的事例に結びつけることでできる分かりやすさを備えている。
第一、あなたの動機は、必ずしもあなた自身で思っているほど利他的ではないことは忘れてはいけない。第二、あなた自身の美点を過大評価してはいけない。第三、あなたが自分自身に寄せているほどの大きな興味をほかの人も寄せてくれるものと期待してはならない。第四、たいていの人は、あなたを迫害してやろうと特に思うほどあなたのことを考えている、などと想像してはいけない。(130頁)
(2)恐怖
あらゆる種類の恐怖に対処する正しい道は、理性的に、平静に、しかも大いに思念を集中して、その恐怖がすっかりなじみのものになるまで考えぬくことだ。(85頁)
つまり、芥川龍之介のごとく、「ぼんやりとした不安」を根拠に自害してはならないということである。
(3)単調を極めよ
ラッセルは単調の中に真の充実が見出されることを特に強調しているように思える。
「…真理はいつもおもしろいわけではない」(254頁)
実りのある退屈から逃げることで、もう一つの、もっと悪い種類の退屈のえじきになるわけだ。幸福な生活は、おおむね、静かな生活でなければならない。なぜなら、静けさの雰囲気の中でのみ、真の喜びが息づいていられるからである。(74頁)
内部が分裂している人間は、興奮と気晴らしを捜し求める。
彼は、強烈な情熱を愛するが、それにはしっかりとした理由があるわけではなく、さしあたり、その情熱がわれを忘れさせてくれるので、思考というつらい仕事をしなくて済むからである。…しかし、…最も強烈な喜びを味わえるのは、精神が最も活発で、もの忘れの最も少ない瞬間である。これこそ、まさに、幸福の最上の試金石の一つである。どんな種類であれ、陶酔を必要とするような幸福は、いんちきで不満足なものだ。(120~121頁)
この点に関しては、試験勉強の例が最も分かりやすいだろう。
すなわち、試験勉強の際、勉強に疲れると「息抜き」と称して、遊びに逃げる瞬間がある。
この「息抜き」は再び適度な集中力をもって勉強に向かうために必要な時間であるとは思う
しかし、この「息抜き」は時として、過度に間延びし、勉強時間を圧迫したりする。
そもそも、「息抜き」の間にも意識下では試験勉強をしなければならないという強迫観念が息づいており、本質的な「息抜き」になっているか怪しいことも多い。
ある程度の「息抜き」は必要であろうが、試験勉強の効率を最大化するためには試験勉強そのものから楽しみを見出す工夫も必要であろう。
真の幸福は、明晰な思考の先端にのみ見出される。
これは、自戒として何度も頭の中で反芻したいラッセルからの提言である。
4 あらためて、幸福とは
本書を読み終えた後、よくよく考えてみると、幸福パートが不幸パートよりも面白く感じられなかったことには、毒舌の面白さだけでなく、本質的な理由があるかもしれないと考えが浮かんだ。
すなわち、幸福とは、プラスを得た状態というよりは、マイナスが存在しない状態と見た方がしっくりくるのである。
このことは、幸福パートでも不可避的に不幸について触れられていることにも表れている。
以上、幸福になる可能性について、予備的な概観を行った。以下の諸章では、このことを詳述するとともに、あわせて、不幸の心理的な原因からのがれる方法をも示唆することとしよう。(173頁)
あるいは、終章である「第十七章 幸福な人」の最終頁では以下の通り述べられている。
すべての不幸は、ある種の分裂あるいは統合の欠如に起因するのである。意識的な精神と無意識的な精神とをうまく調整できないとき、自我の中に分裂が生じる。自我と社会とが客観的な関心や愛情によって統合されていないとき、両者の統合の欠如が生じる。幸福な人とは、こうした統一のどちらにも失敗していない人のことである。(273頁)
本書は私に対し幸福概念の転換を迫り、これにより私は、概念を実感に結びつけることに成功した(はずである)。